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祖師ヶ谷神明社 ChatGPTで石碑を読む

  • 執筆者の写真: 紙成鳴美
    紙成鳴美
  • 5月19日
  • 読了時間: 2分

更新日:5月23日



だいぶ前に祖師ヶ谷で見かけたリアルな日本兵(コスプレ?とは思うけれど)そもそもあの場所と何か関係があるのかな?と思い立ち、祖師ヶ谷で検索してみました。


その場所から200mぐらいの所に、祖師ヶ谷神明社内の戦没者慰霊碑がありました。今まで何度もお詣りしていても認識していませんでした。。


今は太平洋戦争としか言ってはいけないタブーとなっているのですが、慰霊碑には名称が彫られています。こちらと同じ名称では、都内ではあと練馬区と墨田区のみのようです。戦争に関して、忘れてはならない事や知らない事が沢山あるのですね。


こちらに神社正面の写真を載せています🙏


以下は追記ですが、写真の隣にあった石碑が全く解読できないので、ChatGPTにこちらの画像をアップして読んでもらいました。最初に概要、逐語訳、最終的に全訳が帰ってきました。凄くないですか?


でも、石碑には「佐野豊行 書」と書いてある所が違っているので、どこまでが正しいかは分かりません。

🔸現代語訳(Chat GPTより)


武蔵国(現在の東京都西部)北多摩郡新倉村にある熊野社は、私たちの祖先の氏神であり、神明(神々)をお祀りする神社です。

この場所は神聖な地とされてきました。


しかし、長年の歳月と風雨によって社殿は荒れ果て、苔や草が生い茂り、まるで廃墟のような有様になってしまいました。


そこで、村人たちは話し合い、神の御心を尊び、自ら財を出し合って社殿を再建することを決意しました。

その工事は、江戸時代・貞享年間の旧社を模範として新たに造営するものでした。


南向きに社殿を配置し、敷地を広げ、拝殿を建て、両側に石灯籠を設置し、神馬(神様に奉納する馬)を用意し、鳥居も新たに立てました。

さらに石段を築き、参道を整備し、病人のための石の腰掛けも備え、石柱や神鏡(神に捧げる鏡)を奉納しました。

彫刻や装飾も施し、工事には多くの金銀が費やされましたが、村人たちは心を一つにし、労を惜しむことなく取り組みました。


工事は明治18年11月に始まり、翌19年(1886年)1月に完了しました。

この行いは、祖先を敬い神をお祀りする忠孝の心によるものであり、村人たちは互いに仲良く協力して神の恩に報いようとしたのです。


この出来事を後の世に伝えるため、石に刻んで永く記録することにしました。


明治19年2月

発起人:佐野正八、佐野野鈴吉


それにしても、こうして後世のために努力してくださった方々がいて今があるのですね🙏



 
 
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