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  • 執筆者の写真紙成鳴美

八百万の神



神社の神道とお寺の仏教について、まだ入り口程度で間違いもあるかもですが、根本の部分がなんとなく分かってきました。


海外の神様は、「神様自身意外の存在はすべて神様によって創られた」と考える事が多く、インド発祥の仏教は「真理を悟る事ができれば誰でも仏になれる」とします。


それに対して日本の神道は「古事記」「日本書紀」でも神の子孫として人間は語られているものの、人が神様になる話や、人を神様として祀る話は載せられていないとの事。


なので「人間こうあるべき」という伝えなくてはならない教義があるわけではないそうです。


平安の歌人、西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌に


「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」


訳すと「何が祀られているのかわからないけれど 涙が流れるほどありがたい」


という意味との事で え〜!?平安時代でもそうだったの?と思いますが、八百万の神、神羅万象に神が宿るとする古来の文化が感じられます。


写真は昨日頂いたお花の和菓子です。西洋菓子は創作的ですが、和菓子は自然をモチーフにしたものがほとんどです。それも何かを付け足し過ぎず、凄く繊細な表現です。日本人の魂が自然と表現されているのかもしれません。


あと海外の教会は建物で信者と外に分離されていますが、神社は鳥居という結界があるのみで誰でもが入れて、お庭も手入れされていて楽しむことができ、お賽銭箱が無防備にも外側にあるという、とても開かれていて自然を主体として楽しめるように造られていると思います。自然崇拝が根底にあるからかもしれません。


日本に今混在する神道と仏教は本来違うものですが、長く戦ったりする事もなく融合しています。


現在では生の喜びを分かち合い、神様にお祈りする場所が神社、死や苦しみについて哲学的に考えたり、お坊さんよりお説法を頂いたりする場所がお寺というのが今のイメージかもしれません。


市原稲荷神社さんの毎月の御朱印を制作していなかったら、勉強もせずに、ただただ美しいだけで神社仏閣を巡っていたかもしれません。ご縁に感謝です!


誰もが訪れる場所として、日々維持管理をなさる事も大変な事と思います。


今日は市原稲荷神社さんの午の日です。お近くの方はぜひお参り頂けたらと思います。


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